宮園先生は1922年2月18日、安城平山に生まれ、幼くして朝鮮に渡り、苦しい生活の中で勉学に励んだ。成人して教師としての信念を固め、郷土に帰りこの安城小学校の教壇に立った。
愛の教師宮園先生は、文化日本建設と教育復興の熱意をもって、常に児童の中に生きた。
先生の担任する六年生は鹿児島市への修学旅行を計画し、資金を得るために、夏休みの稲刈り作業を決定した。
1948年8月14日、稲刈り作業後、児童の希望を入れ、水泳練習を始めた。沖に出て、楽しげに泳ぎ回る児童を見守っていたが、突然起こった潮流の変化に三名の児童の危機を見た先生は、まず二名を運び三人目は死力をつくし救い上げた。しかし、自身は力つき、午後4時27才の若き身を永遠に安城の海深く没した。
この報が伝わると、たちまち全国的な世論が先生の死をいたみたたえた。
その一つの現れとして、地元民の総力と協賛者の協力によって、1949年1月、この顕彰碑が建てられた。