山田歌子は、京都に生まれ、夫は薩摩藩士京都留守居役の山田市郎左衛門清安、和歌の縁で結ばれた。歌子とともに鹿児島に帰ってきた清安は、第28代藩主斉興の跡目相続争い(お由羅騒動)の中心人物として処刑され、歌子も夫の罪に連座して種子島に配流された。
種子島では、第23代名跡松寿院の厚遇を受け、また、歌人の平山優子との交流も深かった。
歌子の歌風は、桂園派と呼ばれるもので、新鮮で種子島の花壇に大きな影響を与えた。
「吹く風も磯うつ波も心せよ まだ里なれぬ旅の枕木」
これは、種子島の第一夜に詠んだものである。
その後、万延元年(1860年)8月16日に、不帰の人となった。歌子の墓は、田屋敷雲之城墓地の一角に、自然石で建っています。